昭和44年05月01日 月次祭



 親の思いを子知らず、神の思いを人知らず。これはまさしく天地の親神様のお嘆きの言葉だとこう思います。同時に神様の思いが分かる、神様のお心が分かると、分かるところから神様のお心に添う生活が始まる。親のこの心が分かるところから親の心に添う親孝行が出来ると同んなしこと。そこでお道で言う信心のおかげと言うのは、神様のそうしたお喜びと私共がそうした親を持っておる神様を頂いておる、その神様の御守護を受けておるんだと言う事が分かって、そこに私共の喜び。神恩報謝の心が涌いてくる。
 そう言う心と神様との喜びとがひとつになって、そこから生れて来るおかげ。おかげと言うのは実は、天地に満ち溢れておるのでございますけれども。そう言う心の状態にならなければ、そのおかげをキャッチする事が出来ないね。だからどうでも一つ神様の思いが分からにゃ、しかもその思いに添うていくおかげを頂かなければいけない。一通り分っておる様であっても分かっていない証拠に、おかげがこう現れて来ないね。だいたい神様のお心が分かっておる様にあるけれども。
 分かっておってそれを行の上に現わさないから、おかげが頂かれない。いっぱし分ってやおる気持ちで人にも話をしたり、天地の親神様の心とはこういうなんです。こう言う風にせにゃおかげを頂かれない。言いながら自身がおかげを受けていない。ですからそのうその分かっておると言う事を、もう一遍再検討して見なければいけない。金光様の御信心はね。もう絶対おかげに繋がる道なのですから、どんなに素晴らしい様な事言うておっても、それがもしおかげにいうなら御利益に繋がらなかったら。
 そりゃまぁこれは間違いだと思わにゃいけんのです。まぁ言うならば親が背中が痒いと、いわゆるそこん所を掻いてやる。はぁ有り難いね、あのう孫の手というのがあるでしょう。お爺ちゃんが肩を叩いてくれといやぁ叩いくれる、痒いかといやぁそこを掻いてくれる。そこじゃなかまちっと上まちっと下そこねと言うて掻いてやる。はぁそこそこと言うて喜ぶ。ところがその神様がです、何を私共に願い何を求めておいであるかと言う事が先ず分かったら、だからそこんところが行に現れなきゃいかんのです。
 はぁ背中がお痒いんですか言うたら。背中掻いてあげなきゃいけん、ところがいっぱし分かった気持ちで、はぁ神様背中を掻いてくれといいござるけん掻いてやる。はぁここばかかんならんとばここば掻きよるけん、神様がそこじゃなかっちっから、かえってはがいい思いをさせよるような事が、沢山私共信心頂いておる者の上にもありはしないだろうか。いっぱし分かっておる様な気持ちであるけれども、肝心のところが分かっていない。肝心なところを掻こうとしない。
 それこそまぁお爺さんから言やぁ、孫は可愛いものねその孫の手と言うのが、もう本当に痒い所に手が届く様にしてくれる。だから孫が可愛い。例えて言うとまぁ外に出ますとね、まぁ子供の買うてこんでも孫には買って来る。孫の好きそうなものを喜びそうなものを買って来る。そうすと孫の喜ぶ。その喜ぶ顔を見てまたお爺ちゃんも喜ぶ。私はお道の信心でいうおかげというのはね。私共が求めるいや求める以上のものが与えられて、信心も出来んのに、この様なおかげを頂いて有り難し。
 信心も出来んのにこの様なおかげを頂いて勿体無し。という心でそのう受けて行くところにです、神様は限りなくそう言う心の上におかげを下さる。ところがおかげを受けておってもおかげをおかげと知らず。または思わず。それではですおかげが限りないおかげに繋がって来ない。お取次ぎを頂いて、はぁどうぞ右にして下さい、左にして下されと言うて願うて、それがおかげを頂いたらおかげを頂いたと言う。だからそういうおかげではです、いわゆる神も喜び、また氏子も喜べれると言うおかげになって来ない。
 私共のそのおかげがです、神様の喜びであり私共の喜びあり。それをお取次ぎ下さる金光大神も喜んで下さると言う、おかげになっていかなきゃ。だから信心がお話を頂いて分かる。分かったらそれを行の上に現わされなければ、あるいは神様のお心であり神の声なのだ。こうあれよと言うて下さったらこうあらして頂く事に精進しなければならない。精進しても精進しても尚出来ない。そこをお詫びして行かなければいけないね。神様がこう言うて下さるからこうして頂いたのに。
 どうしておかげを受けられるだろうかと言う時には、もう一遍それを検討しなければいけない。どこに不行き届けがあるやら分からん。思い違い考え違いがあるやら分からんところから。おかげがいわゆるおかげ下さってあるけれども、そのおかげがどこでかすれ違いよるとね。今日或方がお参りをして来た。大きな事業をさして頂いておる。そのお参りが勿論大きな事業をしておりますから、その事業がまぁ思う様に行く様にと言う訳ですからね。おかげを受けるです。
 ところがここで一番のこの悩みと言うのは、長男とその主人とのそのう仲が非常に悪い親子ですけれども。親父が右ちやぁ必ず息子は左をする。勿論ま親子で一緒にしょうごとなか、もう親父の方ももうあれが顔を見ろうごともなかっと言う様な仲である。そこで中に挟まれたお母さんが一生懸命心配気を遣われる心配する。先月からその方が今日の秋山さんに会うた。秋山和江さんに。あぁた方の事を一家をあげて信心しなさるとほんにいいけれども、私共の方はまぁ私一人のような事で。
 子供が着いちゃ来んし主人が着いちゃ来ん。本当にそのためにおかげがこういう例えばおかげを受けておるけれども。家庭的なそう言う意味で非常におかげを受けられないと言うて嘆いた。それでも秋山さんが言われる事がです、○○さんしっかり御信心なさい、誰ぁれだって始めから一家足を揃えて信心しよるとこはありませんよちゅうてから。始めは誰かが一人、その有り難い信心を頂かしてもろうて、その有り難いと言う信心がです。例えば家内がするなら主人に伝わり子供に伝わって。
 一家勢を揃えた信心にならせて頂くところからです、思いはそれは違っておっても、事例えば対立と言った様な時でも、そんなら親先生は何と仰るかと言う事で話は決まるのです。親先生が右と仰る。そりゃもうどちらももう無条件で、なら親先生任せにいわゆる神様任せと言う事になって行く、そういう家庭の一つの話を聞けば聞くほどに、家族挙げての信心の無いと言う事が情けないと言うて話された、秋山さんが○○さん力を落としなさいますなって、どこだって始めの間はね、誰かが一人信心を始めるのですよっと。
 有り難いと言う事が分かって来たからというて、すぐなら主人が着いて来る訳じゃないですけれども。いわば家内なら家内の信心をじっと見ておるとです。段々言う事がする事が変わって来る。そしてやっとお前がおながいしてくれるけんじゃろね、こういうおかげを頂いたと言う様なおかげに現れて来る。だからどうでも一つ参って見ろかと言う事になるのであり。私もお母さん連れて参ってくれと言う事になるのである。だからあなたがね、あなたが本当におかげを頂いて。
 もうしっかりもう御理解一遍どん頂いたじゃいけん。もう2編でん3遍でん時間があるならば頂きなさいよと言うて、言われてもう先生本当に分かったと思いますと。今まではもう出来んもん、もうがっかりしとりました。お願いしてもお願いしても、この事だけはおかげにならんから。ところがねそう言う様になら、秋山さんから言われてから、御理解を繰り替えし繰り返し頂いた、まぁその時の御理解がどう言う御理解じゃったか知らんですけれども。
 こりゃ家内じゃない、お父さんじゃなかった、子供じゃなかったと、思うて帰らせて頂いたら、先生その翌日からですね。これはいつまで続くか分かりませんけども、初めて息子がお父さんのあの現場に行くのに、お父さん僕の車に乗らんねっち。うんそんなら乗せて行ってもらおうかって。というてそのうトラックに乗って、親子の者が行きました時に、初めて後ろから親子のものの姿を拝みました。帰って来る時も二人親子が話し合いながら、家に帰って参りました。
 神様にお礼をもうさして頂いとりましたら。もうお礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りない。親先生有り難うございます親先生有り難うございますと言うて。その事のお礼を申さして頂いておったら。ある事を気付かせて頂いてある事をさして頂いたら、それが次の仕事の上におかげの繋がって来ておる事に驚きますと言う。おかげが繋がっておる。そしてこれはね普通の人なら当たり前、親子の者がね一緒に仕事に行く、子供の運転する自動車に、主人親父が乗って行くという事は。
 よその家庭でならもう当たり前の事でございますけれども。これが私の方ではです私が初めて主人と子供の後ろ姿を拝まして頂いたと言うのがです。拝まして頂いてはぁ本当にこの事を忘れちゃ出来んと、人間と言うものはややもするとそれが当たり前の事の様になる。いわゆる主人と子供との仲がそようであったおかげで、主人と子供の後ろ姿を拝めれる様になったと言うて、今日はそのお婆ちゃんと、そのお母さんと二人でお礼に出て来ました。それこそ涙ながらの事にお礼を言うた。
 そこでここで私共が分からせられる事なんですけれども、例え先程から申します様に、お爺ちゃんのなら孫なら孫に、喜ぼうと思うて買うて来たお土産をです。こげなもんないらん。こげなもんを買うて来てから。そして喜ぼうともしないで不足を言うたりするならばです、いかにお爺ちゃんだってもうお前どんそんな事ならもういっちゃ買うて来てやらん。また買うてきてやってもそういうだろうと。
 そこでです私共がね、そう言う様な事柄が私共の生活に、どのくらいあるか分からないと言う事。目が覚めたっちゃあぁまたお仕事せんならん、又朝参りをせにゃならん。しるしかしるしかって不平の方が先に出よる、目覚ましのおかげを頂いた、今日もお生かしのおかげうを頂いて事の印であるから。今日もどうぞ元気でお参りさせて下さい、御用にお使い下さいと言う様な、有り難いという感謝の心受けなければならんのを、感謝の心で受けていないならば、もう朝目が覚めた時から間違っておる訳です。
 そういう意味でです頂いて、例えばなら親子の円満であると夫婦が円満であると。今日私が今お話致します本当に親子が仲が悪いおかげでです、親子が仲ようしているその姿を後ろから眺めさしてもろうてお礼が言えたと言う。そこで分かった事はです、そのお母さん自身が分かった事はです。これはね先ずね言わば私の為に神様が犠牲をはろうて、親と子の仲が悪うして居って下さったんだ、ここを分からせて下さる為だと思うたん分かります。だから是からは金輪際どんなに仲ようなって行けば行く程にです。
 その事に対する感謝が捧げられる。喜びが持てれる所にです、私はお道の信心があると思うです。三度三度のお食事が頂けておると言う事が当たり前のようにある。そこで食べられなかったり又は、自分からね自ら断食でもしてみて、食物の有り難さが分からして頂いて始めて食物の有り難さにお礼を申し上げる。そういうお礼を申し上げる心にです、神様がね、もうそれこそもう喜ばせたいばっかり、氏子喜ばせたいばっかり、氏子のその喜ぶようを見たいばっかりに、神様が限りなくおかげを下さる。
 そう言う神様であるそれが信心なのです金光様の信心は。そこでどんなにいっぱし例えばほんなら教えを暗記しておると言い、どういう難しい事が分かっておると言うてもです。この喜びが湧いてこない、その喜びを知らないような生活であるならばです、おかげは受けれれません。私は思うです、私がこちらでならおかげお頂いて行っておる。それは私が有り難いと言う心が神様に通うておるからなんです。大坪総一郎が喜ぶもんでからもう親神様がもうそれが嬉しゅうてこたえん。
 それでもう嫌が上にでもおかげを下さる。まぁ本と神様の信心も出来ずにこげぇん頂いてから、こげんおかげ頂いてから勿体無いです。じゃったら貯めとけ貯めとけちゅうたるふうでそのう下さる訳。もうこっちは喜ぶ氏子の喜ぶ姿。これにはもう神様が眼がないのです。ですから私が信心とは、結局有り難いと言う心の追及だと言うております。先日24日が久留米の親教会の75年の式年祭でしたね。そん時の委員長なさいました大牟田の、大分の八坂先生が委員長でした。
 あちらのお祭を済まされて講師で見えた佐藤先生も、どうぞ同道でこちらに見える筈だったらしい。それじゃはるむことしてもまぁいろいろ教会側としてもですね、そのういろいろおもてなししたかったんでしょう。それでどうか当初大分の方へお帰りにならにゃなりませんから。こちらの方に総代さんを一人連れてから見えられました。なかなかそのお神酒の方が強いお方ですから、お神酒を差し上げながらまぁいろいろ信心話に花が咲きました。でもう休ましてもらおうと言われるので、寝室に長女がご案内した。
 私が後ろから着いて行って、先生お疲れでございました。お互いにこうやってこういう尊い御用に、お使い回し頂いとるのでございますから、これから先でもいろいろ神様のお喜び頂ける御用にお使い回し頂きたいと思いますと。そこで先生どうぞこれからもよろしゅうお引き回し頂きます様にと言うて、まぁお願いをしながら、最後のお茶ども頂いておりましたら、先生が言われるんです。
 大坪先生折角こちらに参りましたから一言、一言で良いですから言うて下さい。言うて下さいっちゅ、一言で良いから言うて下さい。先生あなたが御結界でね、朝の4時から奉仕になると言う事ですが、その御結界でご奉仕をなさる、いわば真髄と言う様なものをひとこと言うて下さいとこう言う訳です。さぁあっちはなかなか学のある先生で、金光教も先生までなさった方なんです。
 そりゃぁもうお話頂いとったらもう足元にも寄れない程、私共の事から言うなら偉い先生なのですから、なかなか話の相手が出来るとは思えません。いやぁ八坂先生にそう言われたところで、私は別にそれが真髄てん何て難しい言葉を使いなさったちゃ分からん。けれども八坂先生これだけは言えます。それで私が申しました。それこそひとこと。先生私が御結界に奉仕させて頂いてね、私は有り難うさえなっていきゃぁ、人が助かるとですがと私が申しましたら。
 分かりましたちゅうてから。もう下がってもう頭を畳に擦り付ける様にしてからお礼を言われました。私しゃ何が何んやら解らなかった、ねぇやっぱり偉い先生になるとそのひと言で分った。皆さんお分かりになったでしょうか、私はねここでねこういう難儀な氏子が参って来たならこう申します。こう言うっ人が参って来たらこう御理解します。こう教導致します。それで事実そうです。
 お金がない。金銭のお繰り合わせを、もう今日の12時まで手形が、と言うてお願いに見える方に、そんなら私は金銭の有り難さをと言った様な元へ、説いた事があるかも知れんけれどもです説かない。只今私御結界で奉仕さして頂いて、今私が有り難いと思うておる事を話す。また私が有り難いと思うてここへ坐っておる、その姿を見ただけで皆んながおかげを受けておるんです。
 有り難いと言うんですかそういう功徳があるんです。八坂先生が分かりましたとと言われたとこがどこがどう分かられたか私は知りませんけれどもです、そんならその有り難くならせて頂く事のための、信心とは修業とはどういう信心をなさったら、そのように有り難くなれるですかと。やはり聞いて貰いたい。自分で有り難くなる、ほうそんならば私が有り難うさえなってさえ良かならば、いっちょう私が座ってから有り難うなろうと言うて有り難うなれるもんじゃない。今日有り難いと言うのは神様が下さるもの。
 神様が有り難いと思わせて下さるもの。その証拠にはですね不思議で不思議でたまらんのです私は。例えば新聞なら新聞を見せて頂きょってもです、別に感動的な事でもないそのじざい一字読んだだけで感動する事がある。お話を頂きょってそのお話の中から、笑い話の中でその中から、もう身体をふるう様に感動する事がある。そこでそういう感動ていうかそう言うそういう喜びていうか、やはり真に有り難いと言う心を、どう言う様な信心をさして頂いたら、神様が下さるかと言う事が先決なのです。
 おかげを頂くと言う事よりもです、有り難くならせて頂くと言う事が先決なんです。その有り難いと言う心でですね、全ての事がみられ考えられ、有り難いと言う心で事が行われるところにです、私はやはり実意丁寧と言う様な信心が出来て来るのじゃない。有り難い時にはそんなにあだ疎かにはされはせんものね。お掃除一つさせて頂いとっても。その有り難いと言う心でですね、一日の生活が出来させてもらう、あれを見ても有り難いこれを見ても有り難い。
 例えて言うなら親子のものが、仲が悪いと言う事ですらが実はおかげであった。私にこの様な有り難いもの分からして下さる為のそれだあったと。その事に対してお礼が言えておる。そういう有り難いと言う心をです神様が求め給う。そういう有り難いと言う心がね私神様と私共の心の交流点というかね。そこから限りないおかげが頂けて来る。だから反対に心を汚したり有り難くならなかったり、いわゆる言うなら情けなかったり腹が立ったり心配であったり。ところがお互いがする訳なんです。
 だからそう言う時にお取次ぎを頂くのであり、お取次ぎを頂いて修行さして頂くのであり、お取次ぎを頂いて御理解を頂くのであり、そこんところの調節がそこの時に心の中が平生であるね。有り難いと言う心平生心、そう言う心を求めての信心でなからなければいけない。神様がもうやむにやまれぬ思いで、私共に求めて下さるのはそう言う事ではなかろうか。なるほど御用すりゃ助かる。お詣りする修行さしてもらう。御用する事その事がおかげの元になるのじゃない。
 御用さしてもらわなければおられないという、その様な御用が出来る様になる事を、神様がお喜びになるから、おかげになるのである。こげん御用したばってんおかげ頂かじゃった。御用がまるきりおかげの条件の様なものであるからおかげにならん。神様の願いとそこに食い違いが出来る訳ですね。お供え物とおかげが付き物じゃないと仰るのはその事。と言うてお供えさして貰わなければおられないその心におかげがある。近頃のご婦人がです始めて親子の者の仕事に一緒に出ていく後姿を拝ましてもろうて。
 神様にお礼をもうさせて頂いて、神様有り難うございます。親先生有り難うございますと言うて、お礼を申させて頂きょったら、心の中に思わせて頂く事があった。それが言うならば大きな一つの御用に現れて来た。そう言う事が私は本当のお喜び頂けれる、おかげの頂けれる御用でありおかげであると言う事。今朝からのもう御理解の中に、お互いがおかげを受けなければならん。成程金光様の信心しござったが、やはりあぁいうおかげを受けなさったと、人から見上げられる様なおかげを頂かなければならん。
 それは丁度あの藤の花がこう下がる、それを皆んながこうやって見て眺める。見上げる様なものだと。先ずそういうおかげを受けなければならん。ところが信心が分からんなりにですねおかげを受けるとです、はぁやっぱ金光様の信心しござったけんおかげ頂かしゃったというて、人は言いよるけれど自分は今度はおかげをおかげと気付かん。自分の働きが良かったから金が貯まって家が建ったごと思う。そこからです必ず咲いた花は必ず散る事になる。同じ見上げられる藤の花の信心じゃだからいけん。
 藤の花のようなおかげじゃいかん。本当の信心生活出来ておかげを頂かなければいけない。とするとおかげを頂けば頂くほど、忙しければ忙しいほど、神様に向ける心と言うものが強うなって来るね。強よう本格的なものになって来る、いよいよ神様の痒いと言いなさるところが、本当に掻いて差し上げる様なおかげが頂けれる。そこからおかげ頂けれるのが、同じ藤は藤でもやはり日本一の富士の山と言う、富士山の様なおかげならなければいけないと言う御理解なんです。
 一生が修行だとこう仰る、学者が年をとっても眼鏡をかけて、本を読むようなものであろうぞとこう仰る。信心させて頂く者は一生が修行、信心の有り難い言わば分野とでも言おうか、新しいまだ克って見た事のない、知らなかった世界に踏み込んで行く事なんです。それは富士山を頂上を目指して極めて行こうとするそれにも、よう似たものであると私は思う。なるほどだから楽じゃない、けれどもね5合目より6合目、6合より7合目と言う風に登れば登るほど、自分の視野と言うものが広がって来る。
 今まで見えなかったものが見えて来る、もう頂上がそこだと分かれば尚更そこに息が上がって来る。いよいよ元気な心が涌いて来る。そう言う信心をさして頂かなければならん。そして見上げれられる信心を。これならばいつも見上げられる、ただおかげを受けて、いやぁ超親切だったからおかげにならっしゃったというおかげはです、そのおかげがそのおかげからですね、腰かけずにそのおかげを一つの起点とするかね。土台いとするか。そして本当の信心に向って行くと言う信心なら間違いない。
 けれどもやれやれとと言う事になって来てです、言わばその花が咲いておるそれに酔いしれておる様な信心。これは必ず散る。そこから信心が進まなければならんのに、そこから信心が低下してくる。忙しいから。そんな訳には行けないと言う自分を中心にした考え方。だから自分を中心にした考え方でもです、お取次ぎを頂いてお願いをするから、おかげは下さっても、それは神様が喜んで下さるおかげとは思われない。どこまでもですいよいよおかげを頂けば頂くほど、神様本位の信心が出来にゃいけん。
 いわゆる神様任せの信心が出来にゃいけん、そこにです神様が氏子任せと言うおかげが頂かれる。実を言うたらさっきも申します様に、おかげはもうここにもう遍満しておる、いうならばこう降るようにあておる。降る様におかげと言うものは。それをキャッチしきらん受けきらないだけなんです。それをその受けると言う心がです、私は有り難いと言う心だと思うです。
 しかもその有り難いというものがいよいよ本格的な有り難さ、自分と言うものを空しゅうして。言うならば神様本位の生き方にならして頂いておると言う事が有り難いと言う信心、そこに氏子がね神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますからと、3代様が私に教えて下さったね。神様が私共任せになって下さるおかげを頂くためにです。私共はやはり御神徳を受けなければならん。
 御神徳を受けると言う事は、私共は神様を本位に動いて行く信心なのです。そこに神様の御神用にある御神徳が着いて来る。その御神徳にです限りなく頂けれるおかげ。あの世にも持って行け、この世にも残して於けると言う様なおかげに、真剣にして来るのでございます。そういうところはですね、まぁいうならひとつ目指さなければいけない。やはり目指すならば、富士の山の頂上でなからにゃいかん。
 なんちゃったかいうて、もうちょっとこうやって見るともう藤棚が一杯こう咲いとる。そりゃもう本当咲いとる間だけです。散って御覧なさいそれこそ咲いた花なら必ず散る。藤の花は絡んで行っとる、もうそしたら誰ぁれも見上げもしなければ見向きもしませんよ。そう言う事にならんで済む信心を、今こそ頂いとかにゃ、なら今の合楽でその様なおかげを受けておる人があるとは思われません。
 まぁだいわばおかげのところに行ったり来たりしておる訳ですけれどもですね。私共がねそのそういうおかげを受けさせて貰う、一つの道筋と言うかねそう言う信心に基いての信心が、又は修行が生活が出来させて貰う。そしていよいよ神様にお喜び頂けると言うか、神様本位の信心にならして頂くところのおかげ。姿勢を正す所の。ならいかに紋付き袴を着けておりましても、袴がこうずんだれとったっちゃいかんです。
 いくら紋付き袴着けとっても羽織の紐が、こうやってそのもう今にも解けそうにしとったんじゃもう見苦しいです。やっぱりこの羽織の紐がきちっと胸にあって、しかも履いとる袴きちっと威儀を正しておる姿にならなければです。いわゆるきちっとしたと言う事になりませんように。きちっとした信心をせしてもろうて、きちっとしたおかげを頂いてね、きちっとしたいわゆるこれを行けば、この生き方で行けばおかげが受けれれる、お徳も頂かれると言う信心をですね。
 ひとつ皆さんで確信の持てれるとそこい、そう言う信心をひとつ頂いて欲しいとこう思います。それにゃまず私共は神様だから、下さる神の親の心を子知らず、神の思いを人知らずと、天地の親神様はお嘆きになっておられます。ですから私共の本気で親の心がわかって、親の心に添う親孝行さしてもらう。親の喜ぶ顔を見て自分もまた嬉しいと言う信心。神様の願いが分かり神様の心が分かり、それに添わして頂きたいと言う念願。
 一遍に頂けなくとも添わして頂きたい、ここですかここですかというてです、もうそこに言うならばですね、焦点を置いてです神様の心にぴたっと来る様なところを目指しての信心。そう言う信心を私は正していくと言う事がです、最近言われる姿勢をただすとね。そこんところに向きを替えての信心にならして頂かなければならない。それは出来んでもその方に向って進んで行きよると言う事だけは間違いないから、おかげを下さると思うのでございます。
 ここまで来なければ、ここにこうしなければおかげはやらんと仰るのじゃない。そのせずにやまれないやむにやまれない。そこの所を本当に信心が分かりたいと本気で願う信心、そこでそこの所ですどうともね、心は信心の定規だと仰るから。自分の心の上にも定規を押し当て、現れて来るそのおかげの上にも定規を押し当ててですね、是ならば間違いのないと言う信心を進めて行きたいと思います。
   どうぞ。